浄心寺概要

浄心寺概要

概要

名称
浄心寺
山号
湯嶹山(とうとうざん)
院号
常光院(じょうこういん)
宗旨
浄土宗
浄土宗の宗紋
月影杏葉(つきかげぎょうよう)
総本山
知恩院(ちおんいん)
開山上人
還蓮社到誉文喬和尚(とうよぶんきょうかしょう)
御本尊
阿弥陀如来(あみだにょらい)
札所本尊
十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)
【子育桜観音・本尊の脇侍】(こそだてさくらかんのん・ほんぞんのわきじ)

月影杏葉

月影杏葉
(つきかげぎょうよう)

縁起

浄心寺の歴史を知る手がかりとして第7世住職の義演和尚が書いた『駒込浄心寺開山並びに起立の覚え』という文書が残っています。この文書は江戸幕府の地誌や浄土宗が各寺院の沿革についてまとめた書物の浄心寺の記事を作成する時にも参考とされた非常に歴史的価値のあるものです。

浄心寺を創始した僧(開山上人)は、還蓮社到誉文喬和尚という人物です。どこでいつ生まれたかや誰に師事したのかは記録に残っていませんが、大本山・増上寺(現東京都港区)と江戸時代の浄土宗の僧侶養成機関だった関東十八檀林の一つ善導寺(現群馬県館林市)にいたことが分かっています。その後、慶長17年(1612)に駿州赤坂(現静岡県中央部)で畔柳助九郎武重氏の助力のもとで浄心寺を開きました。浄心寺の基礎を築いた文喬和尚は、元和7年(1621)11月に遷化されました。

浄心寺の創始に貢献した畔柳助九郎武重氏は、徳川家康公の家臣として多くの戦に参加しました。特に元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いにおいて敗走する家康公を浜松城まで護衛した武功で知られています。元和2年(1616)に家康公が亡くなると、助九郎氏は駿州から江戸・湯島妻恋坂付近に移ることになりました。文喬和尚も助九郎氏の後を追い、拝領した土地の一部に浄心寺も移されます。この時に浄心寺の山号は湯山と名づけられました。ちなみに浄心寺の院号の常光院は、助九郎氏にお戒名として授与されたものです。

天和2年(1628)年12月28日に発生した「八百屋お七」で知られる大火によって浄心寺も被害に遭い、現在の地に移りました。この場所は春日局のお花畑だった場所で、現在も春日局が哀願したと伝わるお地蔵さまが立っていらっしゃいます。


第二次世界大戦でも空襲に遭い、焼け野原になった中から第23世住職・小池政雄和尚と千代夫人が檀信徒の協力を得て、今日のような復興と発展を遂げました。政雄和尚は、江戸観音札所の第10番に指定されている「子育て桜観音」こと十一面観世音菩薩像をはじめとする阿弥陀如来立像、四天王像、虚空蔵菩薩像等、仏像の建立に力を注がれました。参道に立つ布袋さまの像や本堂の巨大木魚なども政雄和尚の発願であり、今日も浄心寺の象徴となっています。

戦争で受けた傷から右足をなくし「一本足の和尚さん」と呼ばれながらも、明るく精力的に活躍され、多くの人々に慕われていましたが、平成17年(2005)9月に逝去いたしました。

現在は第24世住職として佐藤雅彦和尚が勤めています。

(2026年2月23日 浄心寺史編集室)

善導寺

増上寺(東京都港区)と善導寺(群馬県館林市)

※いずれも編集委員が撮影